'意'という言葉や'心'という言葉も曖昧ですね。
日本ではあまり区別せずに、使われている気がします。
あるカンフー映画では'意'という部分が'心'と間違って邦訳されていたこともありました。
映画のなかにて
「私が教わったのは招(形)ではなく、'意'である」
日本語字幕:
「私が教わったのは招(形)ではなく、'心'である」
これだと大分意味合いが変わってしまいますね。
い【意】
①心に思うこと。気持ち。意見。「遺憾の意を表す」
②言葉や行為が表している内容。意味。わけ。
③(梵manasの訳)仏語。あれこれと思いめぐらす心の働き。思量。「心、意、識」
デジタル大辞泉より(一部省略)
'心'が形のないものなら、'意'はその心が現れたものというように考えることも出来ます。
一方でフェルデンクライスでは動きにおいて、方向性と関連して、意図<intention>という言葉はよく使います。
以前「指月の譬え」の記事で、自己の方向性<self-direction>と'意'についてお話ししたように、意、意図とは方向性を持ったものです。
以前の記事リンク→指月の譬
方向性といえば、原始的な単細胞生物も、自己保存のために移動する方向性を持っていること<direction>についてフェルデンクライスも説明しています。
自分が生き残るために、逃げる、捕食のために移動するなどです。
そうすると方向性を持っている働きを'意'といえるのならば、私たちの'心'が起こる以前からそれは存在していたかもしれないということです。
仏教では、例えば見る触れるなど、何かを知覚したらその途端にそのものに対する執着が起こるという五感の性質について言及しています。それはいいこととか悪いことではなく、人間(や他の生き物)の特徴であり、それは生への執着の根源ではなかろうかとも感じています。
つまり、私たちが気づいている以前の、心の背景にある無意識に属するものではないか。
さてここまで話すと、本の副題の「意のままに」というものの解釈も変わってきますね。
人生を意のままにしようとする、、しかし実はその'意'そのものすら自己の意のままになっている代物ではないことがわかるでしょう。
ここでフェルデンクライスの引用をします。
「秘教的思想流派のなかで語られるチベットの寓話がある。その物語によると、覚醒した意識をもたない人間は、欲望という何人もの乗客がのりこみ、筋肉で馬とつながり、馬車そのものが骨格となった馬車の一行であるという。意識は居ねむりする御者にあたる。御者が眠っているかぎり、馬車は当てどもなくあちこちひきまわされるだろう。乗客は各自勝手な方角を目指し、馬はでたらめな道をとる。けれども、御者がぱっちりと眼を覚まして手綱をとれば、馬は正しく馬車を引いて、全ての乗客をそれぞれの目的地へ運んでくれるであろう。」
フェルデンクライス身体訓練法 P75
私たちは、'意'の奴隷となるのか? はたまたそれに気づいて手なづけることができるのか?
フェルデン下町
2019年9月17日火曜日
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