2019年6月6日木曜日

食指(しょくし)

中国では人差し指のことを食指と呼ぶそうです。

「食指が動く」「食指が伸びる」という言葉がありますね。
春秋時代のある故事がもとになっています。

 ”楚の人が鄭の霊公にすっぽんを献上しました。公子である子公と子家がちょうどそのとき霊公の屋敷を訪れようとしていました。その時子公の人差し指がぴくりと動いたので、子公は子家にそれを示してこういいました。「私の人差し指がこうなる時は必ず珍味にありつけるんだ」二人が霊公の屋敷に入ると料理人がちょうどすっぽんをさばいているところでした。”

このことから、「食指が動く」とは、なにかを手に入れたくなる、やってみたい気持ちが起こる、なにかに興味を持つなど、心が動くことを表しています。

人差し指、、この指を英語ではIndex Fingerといいます。

index:索引、指標、指針、指数など

月でも何でも、何かを指し示す時、特にどの指と指定されなくても皆さんはこの人差し指を使ったはずです。
とても興味深いことです。

食欲や意図が方向性をもってなにかに向かうことと、この人差し指とは関係があると私は考えています。

心、意と身体の結びつき、結びつきというより不可分性、心と身体は本質的に分けて考えられないものであるいうことを示している具体的な例の一つであると思います。


https://youtu.be/sDW6vkuqGLg



フェルデン下町

2019年6月4日火曜日

指月の譬(しがつのたとえ)

今、あなたが屋外にいるとしても、屋内にいるとしても。
天井がなくて空が広がっていることをイメージしてみて下さい。
空には月が輝いています。
その月はどこにあるでしょうか、天高くあるでしょうか、低い位置にあるでしょうか。
想像してみてください。

それではその月を指さしてみてください。

月を指さしますが、指に注意を集めず、月に注意を向けてください、。

月を指さしているあなた全体の様子はどんな感じですか、左右どちらの指で月を指していますか。体重はどちらかの足に乗っていますか。

月を指さしながら

あなたのその月はどんな明るさで、どんな色ですか。

白い色の月ですか、紅い月ですか。

その月はどのくらい欠けていますか、三日月ですか、それとも満月ですか、半月ですか。

雲一つのない空に、その月はありますか、それとも雲がかかって朧な感じですか。

兎は見えますか。

出来るだけリアルに想像してみてください。

リアルに想像すればするほど、あなたの月を指さす姿勢に変化はありますか。

では腕をおろして、月から目を離して休んでください。

月から目を離しても、その月は已然として空にあります。例えば歩き回ったら、その月はあなたについてきますか、それともずっと同じ場所にありますか。

さて、どうして私たちは月を指さすのでしょう?

ひとりでいる時に月を見て、きれいだなーと思ってもあまり指を指したりしませんよね。

そうです、誰かにその月のことを知らせるために月を指すのです。その月を誰かと共有するために…

では今度はあなたの想像の月を友達に教えるために、そんなつもりで月を指さしてみてください。

先程と姿勢は変わっていますか。

どうすれば、友達はあなたの月が見えるでしょうか。

あなたの指だけを見ても月がどこにあるかわかりませんね。

友達はあなたの全体を見る必要があります。

あなたは指や腕だけでなく、あなた全体で表現しなければ伝わりません。あなた全体がどのように月に向かっているか、すなわち自己の方向付け<self-direction>の仕方です。

それを意識して月を指さしてみてください。

さて、友達にも月は見えたでしょうか。

友達にも見えたら友達もその月を指さしてみるのも面白いかもしれません。

今あなたに見えている月、その月は現実に見えている、存在していると思われる月となにが違うでしょうか。

月は地球から36万キロから40万キロ離れているといいます。月の光が地球に届くまで約1,3秒だそうです。そうすると今見えている月は、この瞬間でなく1,3秒前の姿ということになります。
それは本当に存在しているといえるでしょうか。

大きい例では、たとえば空に瞬くある星は何百光年も離れているので、我々が見ている(光が届いている)この瞬間にはもう消滅しているかもしれないという話をプラネタリウム等で聞いたことがあるかもしれません。

それでは現実に空に見えている月や星と、あなたの想像でリアルに見えている月、なにか違いはあるのでしょうか。

その月や現実の月や星が実際にあるかないかも問題かもしれませんが、いまあなたの想像の月が現実の様にリアルに見えていること、どのようにその月を見ているか指さしているか、あなたがいまどうしているか、あなたの自己の方向付け<self-direction>の仕方を自分で気づいているかどうかが今の問いです。それは何かを変えるでしょうか。

真理というものや、それをつかもうとすることや、ある目的に向かって歩むことは尊いことだと思います。

しかし過程そのもの、すなわち今に注意を向ける、それをフェルデンクライスでは大切にしています。


「動きは人生であり、人生はプロセスである」 モーシェ・フェルデンクライス


https://youtu.be/yY4adJjHkJY?t=1226



フェルデン下町

2019年5月3日金曜日

当たり前な事は把握しにくい事は把握しにくい

日本は新しい時代『令和』なりました。フェルデン下町もグループレッスンを近々再開していきますのでよろしくお願いいたします。

フェルデンクライス博士の最後の著書で“Elusive Obvious”という本があります。

不思議な題名ですね。
Elusiveは、とらえどころがないとか曖昧であるとかそんな意味です。
Obviousは、よく見える、明白、明瞭といった意味です。

私の尊敬しているフェルデンクライスプラクティショナーの先輩はこの題名を「当たり前の事は把握しにくい」と訳していますが、素晴らしい妙訳だと思います。

私たちが当たり前‘obvious’ の様に思っていることも、それがどんなものであるかは実はよくわかっていない‘elusive' な事が多いです。

前にブログでふれた「健康」や「習慣」もそんなものです。

私たちがいま生きていることも実に不可思議なもので、この時代に人として生まれて、この地球上で、ある人と出会って、家族や友人同士になるとか偶然とは思えない奇跡のようなものだと思います。

ところがその事に慣れて、生活していることや環境が‘当たり前’のように感じてしまうと、だんだんそれを大切にしなくなってしまったり、丁寧じゃなく扱ってしまったり、雑に生きてしまったりするのかもしれません。

実は全く当たり前ではないのに。。

私たちの普段の行動も、当たり前の様にこなしていて、実はどのようにやっているか自分で気づいていないことが多いです。

フェルデンクライスでは身体がどのように動いているかなど、今に注意を向けていきます。

丁寧に動いて感じていると、徐々にどのようにやっているか感じられてきます。そうすると心地よく、動きの範囲や容易さが大きくなるということも起こってきます。

色々なものが明晰になったような感じがするかもしれません。普遍的な道理の様なものをなにかわかったような気がするかもしれません。例えば呼吸はこんなものだとか、この動きはこれか!とか

それもとらえどころのないもので、なにかわかった気になっても全然わかっていなかった、まだ先があったと言うこともよくあります。

でも、その気づいたことを一つの答えであると固定しないで好奇心を開いていると、留まらずどんどん学び続けていくことができます。それはとても楽しく、面白い作業なんです。

あらかじめ答えがある訳ではありません。でもそんな過程を通して、明らかで当たり前‘obvious' になったことは、当初の当たり前‘obvious' とは全く違ったものになっていると思いませんか。

そんなことを一緒にはじめましょう!


フェルデン下町

2018年5月31日木曜日

歩行器からでて冒険しよう!


これは私の生後六ヶ月くらいの写真です。実家で見つけました。

歩行器なるものに入れられてます。多分まだ自分で立つ前でしょうね。

でもなんだか悲しそうな顔が印象的です。クリスマスの格好もさせられてるしシュールな写真ですよね。

これは保育園で先生が撮った写真だそうです。

家では歩行器を使ってなかったし、母親はこの写真を見たときとてもかわいそうだと思ったそうです。私もこの写真を見たら悲しくなります。

子供の頃の他の写真はもっといきいきしてる感じなんです。歩行器に入れられるの嫌だったんでしょうね。無理矢理立たされて、、動けないし、、小さい時から型にはめられるのが嫌いだったのかもしれません。

この歩行器と言うものの目的もよくわからないです。

でも歩行器じゃなくても、善かれと思って子供が自発的に学ぶ機会を奪っている事はあると思います。

例えば、なにかを成し遂げたかどうかによってのみで子供を評価するとか…。

「なしとげたことだけで子供を判断すると自発性を殺すことになる」
モーシェ・フェルデンクライス(フェルデンクライス身体訓練法P30)

そうするとだんだん"自分のために"学ばなくなってしまうのでしょう。

もしかして、私たちは大人になっても自ら’歩行器’の様なものに入ってしまっているのかもしれません。

それには、もう慣れ親しんで安全に感じているかもしれませんが、そのせいで身動きが取れなくなっているかもしれません。

でも小さい時との違いは自ら決めて抜け出す事ができるということです。

一緒に歩行器を出て冒険してみませんか。
 

フェルデン下町

2018年5月19日土曜日

剥がしてどうするの?

古い友人と電話していて、こういうことをやっていると話すと’肩甲骨はがし’をやって欲しいと言われた。
剥がしてどうするの?とかイジワルなことを考えつつ話を聞くと、高校生ぐらいの頃から肩甲骨が埋まっている感じがするとのこと。

前から肩こりもありそうだったし、そのことで息苦しさを感じたりしているんなら、今度会った時になにか手伝えるかなと思いました。実はたぶん肩のことだけじゃないかな。

ちなみに彼はドラムをやっていて、私もドラムをやっていたんですが、彼の方がはるかに上手でした。私の方が昔から肩甲骨は動くし、たぶん筋肉も柔らかかったんですがね。

私は表面的にはしなやかに動ける様にみえて、なにか意図して行動しようとする時になんか堅いんですよね。それが私の課題です。

たしかフェルデンクライス博士は
 「体を柔軟にすることに興味はない。頭を柔軟にすることに興味がある。」
と言っていました。
でも本当は体と頭(Mindかな)は分けて扱えないので、この言葉は"体だけ"もしくは"体の特定の部分だけ"を柔軟にしようとしている人たちに語りかけたのかもしれません。
柔軟てなんですかね。

彼はいまはフラメンコギターを練習しているそうなので、肩甲骨から腕の動きはもちろん、座り方や体の使い方が良くなれば、上達に役に立ちそうです。

今度会う時が楽しみ。

 今後の予定
 
 亀有でグループレッスン(ATM)の会 
 5月25日(金)
 6月1日(金)
 6月15日(金)
 6月22日(金)

 時間:18:30ー20:30
 場所:亀有駅近くの会場
 講習料(設備費、指導用教材費含む)2000円


 ご予約、質問等はメールにてお気軽にお問い合わせ下さい。
 メールはこちら
 またはfelden.shitamachiあっとジーメールドットコム←Romajiに変えてください。
 
フェルデン下町
 

2018年5月13日日曜日

訂正

最初の方に"習慣"についての記事を書きましたが。自分で読んでいて間違いに気づきました。

フェルデンクライス博士の言葉
'Habit is great as long as we can change it sometime'
と書いていましたが、これ"sometime"じゃなくて"sometimes"ですね。

「習慣は素晴らしいものだ。ただしそれを時々変えることができればだけどね」

「"時折"変えることができるならば、習慣は素晴らしい」という意味なので、"sometime" "いつか"変えられる、だとずいぶん意味が変わってしまいます。

訂正しておきます。もっと英語の勉強が必要ですね。

今後の予定
 
 亀有ATMグループレッスンの会
 5月25日(金)
 時間:18:30ー20:30
 場所:亀有駅近くの会場
 講習料(設備費、指導用教材費含む)2000円 

 ご予約、質問等はメールにてお気軽にお問い合わせ下さい。
 メールはこちら
 またはfelden.shitamachiあっとジーメールドットコム←Romajiに変えてください。

 
フェルデン下町

2018年4月11日水曜日

健康とは…

トレーニングコースでハワイから来たジェリー・カーズンという先生が、「モーシェ(モーシェ・フェルデンクライス博士)は健康についてどう定義していたと思う?」とみんなに尋ねました。
そのあと「やりたいことをしていることが健康なんだよ」と言っていた様に記憶していました。例えば、ピアノを弾くのが本当に大好きな人がいて、その人が仕事や色々なことでピアノが弾けていないとそれはたとえ病気ではなくても健康ではない。
そんな例をあげて説明していました。
その時の内容、以上のことより詳しくは覚えてなかったのですが、この健康の考え方はすごく印象に残っていて、フェルデンクライスメソッドでやろうとしていることの根底にあると感じてました。そして、もっとこのことについて詳しく知りたいな、と一年以上思っていました。
そうしていたらこちらのブログの記事に知りたかったことがありました。
ブログ記事へのリンク→ ON HEALTH by Moshe Feldenkrais
サンフランシスコのフェルデンクライストレーニングで学ばれていた、翠芳(suiho)さんと言う方のブログです。

"A healthy person is one who can live fully his unavowed dreams"

"健康な人というのは、内にある夢に精一杯生きれる人である。"

以上ブログから引用

そうだ!うんジェリー先生もそう言ってたなたしか。しかも引用元の論文が入ってる論文とインタビュー集、私も持ってるし。 まだ最初だけでその論文まで読んでなかった。こちらのブログのおかげで知れました。ありがとうございます。
未だ読んでませんが…
この本→リンク

皆さんにとって、"健康"とはなんですか?

WHO(世界保健機関)の定義した"健康"の概念と言うものもあります。

なんか世界中で多くの人が"健康"を追い求めている気がします。

 こんな問いの時に思い出すのは、数年前友人が私にしたある質問です。

"What is your definition of happiness?"
「あなたの幸福の定義はなに?」

私は当時、幸福なんて定義できるのものでもないだろ、と考えました。たとえば登山が好きだとしても、苦しいこともあると思うし、それを越えて素晴らしいことがあるから好きなのかもしれない。
なにか好きなことを仕事にしている時に幸せと思っても、後にそれが苦痛になるかもしれない。
苦しいことが幸せという人もいるのかもしれない。他の人の幸福が幸福ということもあるかもしれない。
幸福があるとしたらそれはそういった"状態"があるだけだろうと、その状態はいつ来るものかもわからないし、定義なんかできないだろう、とそう考えました。

だから

"Nothing is my definition of happiness"
「私の幸福の定義なんてものはないよ」
と答えました。

または今ならこのように答えるでしょう。

"I think it is my definition of happiness that one's being happy"
「私は幸福の定義は幸せであることだと思います」

多くの人が幸福を定義しようとして苦しんでいると思います。

これって、"健康"の定義についてのことと似ていると思います。

幸福や健康といった、Obvious(明白)なようで、それがどんなものか実はElusive(よくわかっていない)なものを無理矢理に定義しようとしたらどうなりがちですか。

たとえば「たくましくなければならない」とか「いつも元気いっぱいでなければならない」とすると、、強迫的な感じがしますよね。そんな風にして"健康"を追い求めていませんか?
「いつもハッピーでなければ」とかね。

私もそんなことあります。

しかし、そういった強迫性から解き放たれた所に健康というものはあるとフェルデンクライス博士は考えていたと私は思っています。"On Health"の論文は未だ読んでないんですけど(後で読みます!)、Potent Selfや他の書籍を読んだり、トレーニングコースで学んだなかでの考えです。


フェルデン下町

フェルデンクライス下町オンラインレッスン 今後の予定

自分のスペースでゆったりと身体に向き合ってみませんか。 フェルデンクライスのグループレッスンに見本はなくリラックスする中で、指導者の言葉により動いていくもので、こ自宅でするオンラインレッスンはいい面もあると、何回かオンラインで教えてみて感じました。 ...