2019年9月26日木曜日

シンボッティジャパンツアー その2

またまたシンボッティRinos Mukuwurirwa Simbotiジャパンツアー2019の演奏会を聴きに、今度は鎌倉に行ってまいりました。


一回の演奏会でも素晴らしい体験ですが、今くりかえして聴いておきたい音だと感じまして再び足を運びました。

今回のツアーでこのシンボッティさんのムビラMbiraはミツバチの羽音(大きい方のミツバチで音が低い方)から音階を取っているそう。(小さいミツバチ(高音)や他の蜂、トンボなどからとったチューニングのタイプもあるそうです。)
昆虫から音階をとっている理由、それは虫の方が上手に唄うことができるからだとか。
彼は伝承儀式ムビラの奏者で、自分では一切作曲などはせず伝承のものを受け継いでいると聞きました。日本の多くやアメリカ、ヨーロッパで現在普及しているムビラは西洋の音階になっているそうです。

曲ごとに、先祖から伝わる物語や教訓があって、それを説明してから演奏してくれるのもありがたかったです。

中でも私の印象に残っている曲の一つが、新しく出たCDのタイトルになっている曲で、ムゾリワMuzoriwaという曲です。

Muzoriwaとは、愚か者の意味。本当は尊い人、実は神からの偉大な使者であるが、それを貶める人々のために愚か者とされてしまっている。

シンボッティ師とお弟子の実近修平さんの演奏
「Muzoriwa」

この曲を聴くと、私はなにかもの哀しい感じがします。人によって、またその時の状態によって色々感じ取り方は変わってくると思います。

今回、シンボッティさんとお弟子の実近修平さんは、日本の何十カ所もツアーで回っていますが、車での移動も含め大変だと思います。ですが、それほどたくさん回って音を届ける必要、意味があったのだろうと、その必然性を感じます。

そのおかげで、私は友人からのお勧めで非常にタイミングよく演奏会に二回いけたし(ほんとはもっと行きたい)、シンボッティの演奏会をぜひ体験して欲しいと思った友人も連れて行くことができた。

こういうのはタイミングも含めほんとにご縁だと思います。

これからジャパンツアーはさらに西の方へと続きます。主催してくれた実近さん、そして日本に来てくれたシンボッティさんに感謝し、皆さんの旅の安全を祈念いたします。

いまも日本でこの音が奏でられていることに想いを馳せながら。。

いつもより虫のこえが尊く聴こえる秋です。


フェルデン下町

2019年9月23日月曜日

シンボッティジャパンツアー

先週の水曜日に上石神井でジンバブエのムビラMBIRAという楽器の演奏会に行って来ました。

MBIRAとは
アフリカ南部に位置するジンバブエのショナ民族に、1000年以上前から土着信仰の儀式で使われる楽器。先祖への感謝を捧げ、先祖から子孫は生き抜くための智慧や力を受け取るとされる。
Simbotiの師であるBandambiraの流派ではMBIRAの機能を、「Remind(想起させること)」としている。各曲に込められた様々な教えが、この世界を生き抜くために想起させていく。
ツアーサイトのなかの説明より。サイトリンク

この度、ツアーで日本に来ているシンボッティさんはこの楽器の巨匠だそうです。

このムビラという楽器、全く知らなかったのですが、フェルデンクライスプラクティショナーの仲間が群馬でこの演奏会に行って、やばかったと教えてもらいました。

それでシンボッティさんの弟子で、この度のツアーのオーガナイザーであり、一緒に演奏している実近修平さんのインタビューを読んで感銘を受け、これは行かなければ、と思ったわけです。インタビューリンク

そして演奏会、、やばかった。。とても感動しました。

もともと電子音楽も好きで、パーカッシブで重層的な音の並びはすごい好みなのです。

でも今回、全く質の違うものでしたね。生身の人間がやっているので当たり前かもしれませぬが。比べるのもおかしな話でしょうが、、。
MBIRAこれは、楽しむためでけではなく、先祖供養の儀式のための音楽、、信仰に関わっていることであります。
お弟子さんでオーガナイザーの実近さんは、信仰であるが宗教ではない(閉じたもの、勧誘などの求心力がない)と語っていました。

演奏から意識、無意識、そして身体への働きかけ(Remind)を感じました。

床に座って聴いてたのですが、ある曲では前の方に引っ張られ、最後の曲では体が上の方に持ち上げられました。

曲ごとに物語とテーマがあって、そのお話しも含め、生きるための智慧を授けてくれていると思います。音も激しくはないですが、単なるリラクゼーションではなく、立ち上がり、立ち向かうための力と勇気を与えられたような。

帰り道は身体が解放されたように感じて歩いていました。

あとやっぱり単純に音楽として、ものすごくかっこいいのです。
CDを買って、シンボッティと実近さんからサインもらいました。
嬉しかったです。

いろんな人に生でこの演奏会を体験してもらいたいと思っています。人によって色々受け取るものは違うかもしれません。
東京でのツアーはもう終わってしまいましたが、私はどっかでもう1回くらい見たい思っています。ジンバブエから来てくれている相当に貴重な機会ですから。



フェルデン下町

2019年9月17日火曜日

続'心。'〜意について〜

'意'という言葉や'心'という言葉も曖昧ですね。

日本ではあまり区別せずに、使われている気がします。

あるカンフー映画では'意'という部分が'心'と間違って邦訳されていたこともありました。

映画のなかにて
「私が教わったのは招(形)ではなく、'意'である」
日本語字幕:
「私が教わったのは招(形)ではなく、'心'である」
これだと大分意味合いが変わってしまいますね。

い【意】
①心に思うこと。気持ち。意見。「遺憾の意を表す」
②言葉や行為が表している内容。意味。わけ。
③(梵manasの訳)仏語。あれこれと思いめぐらす心の働き。思量。「心、意、識」
 デジタル大辞泉より(一部省略)

'心'が形のないものなら、'意'はその心が現れたものというように考えることも出来ます。

一方でフェルデンクライスでは動きにおいて、方向性と関連して、意図<intention>という言葉はよく使います。
以前「指月の譬え」の記事で、自己の方向性<self-direction>と'意'についてお話ししたように、意、意図とは方向性を持ったものです。
以前の記事リンク→指月の譬
方向性といえば、原始的な単細胞生物も、自己保存のために移動する方向性を持っていること<direction>についてフェルデンクライスも説明しています。
自分が生き残るために、逃げる、捕食のために移動するなどです。
そうすると方向性を持っている働きを'意'といえるのならば、私たちの'心'が起こる以前からそれは存在していたかもしれないということです。

仏教では、例えば見る触れるなど、何かを知覚したらその途端にそのものに対する執着が起こるという五感の性質について言及しています。それはいいこととか悪いことではなく、人間(や他の生き物)の特徴であり、それは生への執着の根源ではなかろうかとも感じています。
つまり、私たちが気づいている以前の、心の背景にある無意識に属するものではないか。

さてここまで話すと、本の副題の「意のままに」というものの解釈も変わってきますね。

人生を意のままにしようとする、、しかし実はその'意'そのものすら自己の意のままになっている代物ではないことがわかるでしょう。

ここでフェルデンクライスの引用をします。

「秘教的思想流派のなかで語られるチベットの寓話がある。その物語によると、覚醒した意識をもたない人間は、欲望という何人もの乗客がのりこみ、筋肉で馬とつながり、馬車そのものが骨格となった馬車の一行であるという。意識は居ねむりする御者にあたる。御者が眠っているかぎり、馬車は当てどもなくあちこちひきまわされるだろう。乗客は各自勝手な方角を目指し、馬はでたらめな道をとる。けれども、御者がぱっちりと眼を覚まして手綱をとれば、馬は正しく馬車を引いて、全ての乗客をそれぞれの目的地へ運んでくれるであろう。」
フェルデンクライス身体訓練法 P75

私たちは、'意'の奴隷となるのか? はたまたそれに気づいて手なづけることができるのか?


フェルデン下町

2019年9月4日水曜日

心。

最近電車内で'心。'という本の広告を見ました。
某超有名経営者の新著だそうです。
表紙の副題では「人生を意のままにする力」とありました。
私はこの本を読んでないし、この著者の本も一冊も読んだことがありませんが、それをお断りした上で感じたことを書いてみます。

私はこちらの副題の方が気になりました。

「人生を意のままにする力」
一般的な意味というかこの副題の意味を私が率直に取ると、「人生を思いのままにするためには」とか「望み通り」にしたいというような意味合いに受け取れます。

そして、この広告を見てすぐに私の心に浮かんだのは、「思い通りにならないのが人生ではないのですか?」という思いです。

人生が自分の思いのまま、望み通りに運んでいる人はいますか?人生の望みとは何でしょう。
私は人生とは'まま(儘)'ならないものと感じています。最近これを強く感じます。
そもそも自分の生まれたいところに選んで生まれた訳でもない。
望んで重い病気になる訳でもない。
うまいこと運んで生きていると思っても、人生の'生'そして'死'という最も思い通りにいかないことが誰しもに待ち受けています。
夢を輝かせて生きている方が、突然理不尽にも命を奪われることもあります。

ですから、「人生を意のままに」しようとする考え方では、人を本当に救うことはできないと私は感じています。

この副題については、著者がつけたか編集がつけたかわからないし、本を読んでいないので、これはあくまで電車内の広告を見て感じたことを語っただけであることを付け加えておきます。

次回は'意'についてお話ししてみます。

つづく

2019年9月1日日曜日

秋の気配

最近、秋という季節があるのか本当に短く感じます。

亀有でフェルデンクライスグループレッスン(ATM)を行なっています。

 金曜レッスン 月2回くらい
 
 9月6日(金)
 9月20日(金)
 時間:18:30ー20:30
 
 ほぼ毎週火曜日午前のレッスンはじめます!
 
 毎週火曜日
 時間:10:00-12:00

 講習料(設備費、指導用教材費含む)2000円
 場所:亀有駅近くの会場

   ご予約、質問等はメールにてお気軽にお問い合わせ下さい。 
   メールはこちら
 またはfelden.shitamachiあっとジーメールドットコム←Romajiに変えてください。

 どなたでも参加できます。動きやすい服装をお持ち下さい。
 マットはこちらで用意します。頭の下に敷くタオルなどがあると便利です。





フェルデン下町

フェルデンクライス下町オンラインレッスン 今後の予定

自分のスペースでゆったりと身体に向き合ってみませんか。 フェルデンクライスのグループレッスンに見本はなくリラックスする中で、指導者の言葉により動いていくもので、こ自宅でするオンラインレッスンはいい面もあると、何回かオンラインで教えてみて感じました。 ...